母がいなくなったのは俺が高校生の頃
もともと父がその競技で有名な人で、俺ら兄弟もサラブレッドと言われちやほやされていた
我が家はその競技中心に回っていた
母はその競技の経験ないただの女
父は「おまえにできることは俺たちのサポートをすることだけなんだからな」ってよく言ってた
土日も夏休みも盆正月もなくずっと競技に打ち込む日々だった
父は「男と逃げた」と説明した 愕然とした
母がいなくなって生活は一変した
当然家事をやる人はいないし、競技施設への送り迎えの足もない
後援会との面倒な付き合いも選手当人である俺らがやらなくちゃならない
俺らは遠征で長く家をあけることも多かったのだが
そのたび近所から「回覧板止めるな」だの「ごみ捨て場の当番」だの苦情が来るのもしんどかった
父は荒れ、兄と俺は母を恨んだ
面倒なこと全部ほうり捨てていきやがって、帰ってきたら殺してやるとまで思っていた
その後兄がグレ、競技からドロップアウト
父が「何もしないならせめて家のことをやれ」と言ったが兄は聞かず遊びまくり
我が家においてその競技をしない者は価値がなかったので
父は「おまえは死んだものと見なす」と宣言
兄は父を殴って家出し、数ヶ月後ホームレスみたいなナリで戻ってきた
俺は大学までその競技を続けたが、その年になると最初のビハインド(早く始めたこと、家のバックアップ等)
はとっくになくなり純粋な才能勝負になる
俺は才能がなかったようで行き詰まり、ただの人になって就職した
さいわい競技生活は就職には有利だった
就職してから、その競技以外のなんにもやってこなかったことを痛感した
まず常識がない 金銭感覚があわない 周囲と価値観が違う
人事は快活なスポーツマンを期待して採用したらしいが
俺はどっちかというと偏屈な人間だ
偏屈でも今までは競技で結果を出してきたら許されてきたが社会はそうはいかなかった
父にそれを愚痴ると
「どいつもこいつも失敗作だった。俺の人生はなんだったんだ」と言われた
そのときはじめて親父をいやなやつだなと思った
たまたまこの冬、例の競技の大会を見に行ったときに母方の従弟に再会し、「家によってけ」といわれた
従弟の母親は、俺の実母の妹
その人に言われて、母が病気発覚→故郷で入院→進行が早くそのまま死
という過程をたどったことを知った
スキルス性胃がんというやつで、見つかったときはもう余命がわかるくらいだったらしい
「父は『母は男と逃げた』って言ってました」と言うと
「あなたのおとうさんは妻の最期を看取るという重責から逃げたんだ」といわれた
父は母を「病気になるなんて無責任だ、俺たちにはまだ大会があるのに」と怒ったらしい
母は「死ぬ時くらい解放されたい」と実家に逃げ入院し死んだそうだ
父は葬式にこなかったそうだ
俺も兄も死んだと知らないから当然行かない
俺らに「入院する」くらい言っていけばいいのにと思ったが
あの状況で入院すると言われても「えー困る」「メシは?車は?」しか思わなかったろうし
そう言われるから母も黙って行ったんだろうなと思う
母が悪くなかったのはわかったが、じゃあ誰が悪かったのかというと
しいていえば父だが、父も競技に熱心だっただけで父のような選手は他にもいる
運が悪かったのか、俺らに才能がなかったのが悪かったのか
とにかく誰も幸せにならなかったな、と思うとわびしい
結局事実を知ったところで何も変わっていない
父親の育てかたが悪かったから歪んだ考えしかできてないんだよ