コソーっと書き捨てます。
※凄い長文注意
子供の頃、うちは貧乏だと思っていた。
私が小学校にあがる頃まで風呂は薪で沸かしていたし、その後ガスに替えても当然シャワーはない。
体を洗うための石鹸と家族共有のジャンプーはかろうじてあったけれど、リンスや洗顔料などはない。
掃除機もなく、洗濯機はたびたび止まる年代物だった。
靴下は穴が開いたら自分で縫い閉じていた。
服は父方の親戚からもらうお下がりを着ていた。
下着だけは母が新品を買ってくれたが、それもそこらじゅうがほつれるまで使っていた。
中学生になってよりいっそう、うちは貧乏なんだと思うようになった。
ただ、中学校は制服だったから毎日着る服をなんとか工夫しなきゃという気苦労がなくなって安心した。
周りと比べて不幸だと感じなかったのは、せめて不潔にならないようにと母が気遣ってくれたからだと思う。
着古したボロを着ていても臭くなく汚れてもいなかったから、いじめられることもなかった。
常に一緒にいるような仲の良い友達はいなかったけど、校外でも遊ぶ仲間は何人かいて楽しく過ごしていた。
でも小学六年生のとき、今でもたまに夢に見るある出来事があった。
近所の子の誕生日会に初お呼ばれしたことがきっかけだった。
プレゼントを用意しなきゃならないのに、家には人様にあげられるような物はなかった。
そこで私は母に相談して、二人で知恵を絞った。
最終的に用意できたものは、以前頂き物として和菓子が入っていた綺麗な箱。
そこに親戚からもらった大きなリンゴを一つ入れる。
そして、やはりなんらかの頂き物にかかっていたリボンを結んだ。
お誕生日会が開かれる日曜日、私はそれを持って家を出た。
そこで、同じようにお呼ばれした同級生に会う。
彼女は私に「プレゼント何にした?わたしは○○(キャラクター)のレターセットとシャーペン」と言った。
「私はリンゴ」とは言えなかった。
でもそれはリンゴが恥ずかしいという感情からじゃなかった。そこまで追いついてなかった。
他の子が用意した物がなんなのか聞いて、なんとなく「リンゴじゃダメな気がする」と思ったからだった。
咄嗟に箱を後ろ手に隠し「ゴメン、行けなくなっちゃった」と伝え、走って帰宅した。
今出かけたばかりの娘がすぐに戻ってきたことに母は驚き「どうしたの?忘れ物?」と訊ねる。
私は正直に「リンゴをプレゼントとしてあげるのはおかしくないの?普通なの?」と聞いた。
すると母はハッとした顔をして「そっか…」と、招いてくれた子の家に電話して欠席することを伝えた。
「今日は○○子、朝から熱っぽくて…呼んでくれてありがとう。ごめんね」と。
電話を切ると私に向き直って「今そこで友達と話してたみたいだけど、なにかあった?」と聞く。
声は聞こえないまでも、茶の間の窓からその様子を見ていたそうだ。
やりとりしたことをそのまま伝えると「そっか、そうだよね、ごめんね」と謝られた。
母が悪いわけではないので、どう返せばいいのかわからず私も「ごめん」と答えた。
それから二人で少し黙り込んだあと改めて、このプレゼントは違うんじゃないかと思ったんだけどお母さんはどう思うか聞いてみた。
母は「そうだね、ふさわしいものではないね、ごめんね」と再び謝った。
そんなことがあった翌月の始め、今度は私の誕生日だった。
あれからも友人達は変わらず付き合ってくれていて、お誕生会に行けなかったことも「気にしないで!」と許してくれて。
そして私の誕生日当日、その日は平日だったんだけど放課後になって友人四人がうちを訪ねてきた。
例のお誕生会のメンバーだった。
みんなの手にはきれいに包装されリボンのかかったプレゼントがあった。
「せーの、誕生日おめでとう!」そう言って渡してくれた。
ポカンとする私に彼女達は「これは○○のノートだよ」「こっちは△のシールセットと消しゴム」と説明してくれる。
私は嬉しくて泣いた。
ありがとうありがとうと繰り返す私に、一人の子が「気にしないで!かわいそうな子に優しくするのは当たり前だよ!」と言った。
そして、じゃあまた明日と手を振り笑顔で帰って行った。
私はやっぱりそれでも嬉しいんだけど、なにかそれとは違う感情も湧いていた。
涙が止まらなくて、でももうすぐ母が帰ってくるからそれまでに泣きやまなきゃと必死だった。
今思えばあの感情は惨めさだったんだと思う。
帰宅した母に事の次第を話しながらもらったプレゼントを見せた。
かわいそうな子のくだりと、泣いたことは言わなかったけど母はなんとなく察したんだと思う。
「良かったね、ごめんね」と涙目で私の頭を撫でた。
その頃には、私は母の背を追い越していて、よしよしなんてされるのは久しぶりだった。
なんだか切なくなってまた涙が出そうで、犬の散歩を口実に外へ出た。
もさもさ長毛の雑種犬だったけど、彼は賢くて、普段は猛ダッシュするのに私の様子がおかしいときは隣を歩いてくれるいいヤツだった。
プレゼントをもらったことは、父にもその日の夜のうちに報告していた。興味なさげにしていた。
でも翌朝起きるといきなりゲンコツされ叱られた。何か言っていたけど覚えていない。
父は虫の居所が悪いとしょっちゅう私にゲンコツするので、痛かったけど理由を考えても意味がなかった。
その一部始終を見ていた母が溜め息をついて「バカだね、余計なことを…早く支度しなさい」と呟く。
母は私に対して言ったのに、その言葉に父が反応して、怒り声で何か言う。何と言っていたかは覚えていない。
こういう両親のやり取りは日常茶飯事で、派手な喧嘩にこそならないけれど、家庭内の雰囲気はいつも悪かった。
今回の件に限らず、家の中にいつも雨雲があるような、もやがかかったように見通しが悪いというか。
母が前日とは別人にみえるほど私に対する態度が違ったりすることもよくあった。
父は父で気が向くと私と弟を猫っかわいがりした。
気が向くとというより、家族以外の他者の目があると、と言った方が正しいかもしれない。
親類や近所の人たちはうちのことを『優しい父と、厳しい母。鈍い姉と出来のいい弟』と認識していた。
というか、当時の私はそういうふうに思われているんだろうなという感覚で過ごしていた。
祖父と祖母も同居していて六人家族で、食事もたいてい皆一緒、傍から見たら一家団欒仲良し家族だったのかもしれない。
祖父母は農業をしていた。
祖父は若い頃の出稼ぎでそれ以外の仕事もしたことがある。
けれど祖母は、幼い弟妹の面倒をみなければならないこともあり外で働いて賃金を得るという経験がない。
祖父はやさしかった。無口で無骨なひとだったけれど、一貫してやさしかった。
土曜日半ドンだった小学生の私と弟にお昼ご飯を用意してくれ、一緒にテレビの相撲を見ながら笑い合ったりした。
祖母は弟が生まれるまでは私を連れて出かけてくれたりした。
ただ、長じてから知ったことだけれど、行き先は某宗教の会合だった。
弟が生まれるとそれもなくなり、かといって弟を連れて行くということはなく、出かけて行ってはお土産を弟だけに買ってきた。
私はそれを特に不思議には思わなかった。
弟が生まれるまでの数年間面倒みてあげたという祖母の言葉に、幼いながらも「それもそうだ」と納得していた。
ちょうど保育園に入る年だったのもあったかもしれない。
物心ついたころから両親は日中仕事で家にいなかったから、私たち姉弟はおじいちゃん子おばあちゃん子だったと思う。
でも祖母に食事を作ってもらった記憶がなくて、大人になってからふとそれを母にこぼすとそれは事実だよと言われた。
母が嫁入りしてから一切の家事は母が一人でやっていたそうだ。
私が子供のお手伝いではなく戦力になるまで、フルタイムで働きながら全てを。
それに加えて農業も、祖父母の通院の送迎も。
そのころ、母には余裕なんてものはひとかけらもなかった。
労わって言葉をかけてくれたのは祖父だけだったと、祖父の通夜があった日の深夜、母はひとり遺体の前で呟き泣いていた。
その姿をたまたま見かけた私は当時大学生で、母に対しとても申し訳なく思った記憶がある。
話が逸れてしまったけれど、高校生になってもうちは貧乏だと思っていた。
だから入学してすぐにバイトを始めた。
学校と親の許可が必要で、学校には「家が貧しい。弟もいるので働きたい」と伝えた。
公立の私服高だったため、毎日着る服を買うお金を稼がないといけなかった。
両親は、何かしら運動部にも入りなさいということと、あまり派手な格好をするなよとだけ言い署名してくれた。
部活は5月の連休明けに本決定でよかったので、それまではバイトに慣れることを優先した。
最初のバイト代が入るまでが大変だった。
なにせ中学時代は外出時制服か体操着しか着てなかったから、小6の頃着ていた服を引っ張り出した。
当然着られるわけもなく。
入学式用に買ってもらったスーツがあったけれど、それは卒業式にも着るんだから普段着てはいけないと言われた。
困った私は隣の町に住む十歳ほど年上の従姉妹(父の姉の娘さん)に泣きついた。お下がりがほしい、と。
すると複雑そうな、表現しがたい表情で「おじさんおばさん(私の父と母)には内緒ね」といって、地味目のものを紙袋いっぱいに渡してくれた。
本来なら内緒と言われたからって両親に言うべきなんだろうけれど、私は黙っていた。
でも当然のことながらすぐに両親は気付くわけで。
「従姉妹にお礼渡したからもういい。でも今後はそんな恥ずかしいことをするな」と小学校卒業以来ごぶさただったゲンコツをもらった。
着ていく服がなく、何度見てもないものはないのに、タンスを繰り返し開け閉めするという夢を未だに見る。
夢の中でいいかんじの服を見つけても、手に取るとそれはただのボロ布だったり、虫の卵のようなものがびっしり付いていたり。
現実ではそこまでではなかったはずだけど、脳みそは不思議な変換をするね。
従姉妹に助けてもらって、通学の服はなんとかなった。
ただ、体操着もジャージのみ指定で他は自由、私には体育のときに着る真っ白なTシャツと黒か紺の短パンがなかった。
中学の体操着は元々お古で着古しすぎて黄ばんでおり、脇の下も何度かほつれを縫ったあとがある代物だった。下はブルマの時代。
これは盲点だった。初めての体育がある日の前日、私はかなり焦っていた。自分で買うお金はない。
もう従姉妹に迷惑はかけられないと思い、学校の公衆電話から母の職場に電話してTシャツと短パンを買ってきてほしいと頼んだ。
といっても母に直接言えたわけではなく、電話を受けた事務のお姉さんに言づてをお願いした。
バイトを終え帰宅するとすでに両親は家にいた。
そしてTシャツと紺色の短パンを差し出してきた。「お父さんのがあるから」と言いながら。
顔の前に突きつけられたそれを手に取ると、Tシャツは確かにTシャツなんだけど、うっすら黄ばんでいて生地もパサパサしていた。
短パンは男性用なので前が開いていた。
どうしてなのかは未だにわからない。
でもこのとき私は生まれて初めて目が覚めたような感覚を覚えた。
ずっともやがかかって視界不良だった家がよく見えた。
『この家は何かがおかしい』と、はっきり思った。
けれど『何かが』と思っただけで具体的にはわからない、何をどうすればいいのかまで思い至らない。
フリーズしている私をじっと見つめていた母に、ありがとうと言って自室に戻る。
築百年近い家は無駄に部屋数があり、二階の一番奥が私の部屋だった。
中学にあがるまで、そこは一体何が詰め込まれているのかわからない十畳もある物置だった。
真っ暗で窓もなかったそこを、父が壁をぶち抜いて窓を作り、合板で二部屋に分け私と弟に与えた。
その夜、私は裁縫セットを引っ張り出して、短パンの前部分を縫い合わせた。
よくわからない涙がでた。
その後、初のバイト代を貰ったその足で私は真っ先にTシャツと短パンを買った。
当時は現金支給だったので嬉しくて嬉しくて、家族にも喜んでほしくてケーキも買った。
バイト代はかなり減ってしまったけれど、洋服は従姉妹にもらったものがあるし問題ないと思った。
なるべく自前の用具が必要ないところを選んだ。
ところが、学年ごとに部活用のジャージを注文・購入しなければならないと言われる。
価格は残りのバイト代でぎりぎりなんとかなった。
それを母に伝えると「それくらい出してあげるのに」と言われる。
千円しないTシャツを買ってくれないのに、一万円以上するジャージは買うと言う母の言葉に私は少し戸惑った。
でもこういうこともよくあった。母の中では矛盾じゃない。
素直に受け取ってお礼を言った。なぜかそのジャージは今もとってある。
大人になって私自身も娘を持った。進学の為離れて暮らしているけれど、その娘もこの春就職する。
つまり私は現在いい年のおばさんで、母がする昔話を自分のこととしてというより物語のように聞ける心境になっていた。
母は、自分の情緒がおかしかったことを自覚していた。
言ってることが昨日と今日で違うことも、子供達が戸惑っていることも、頭ではわかっていたそうだ。
だけどとにかく余裕がなかった、と。そして昔話をするたび私に謝る。
父も健在で、性格はあまり変わらないけれど、私が二十歳を過ぎて遅い反抗期を迎えたとき一度喧嘩してからキィキィ言うことは少なくなった。
でもそれよりも十年以上前に祖母が他界したことが、父にとっては転換期になったように思う。
父は子供の頃から母である祖母にほとんど叱られることなく育ったのだという。
祖母は昔から、誰彼かまわず息子の自慢をする人だった。
私にもそう言って聞かせていた。「お父さんは立派な人だ、偉いんだ」って。
そうなのか、と思いながらも父との良い思い出がほぼ無いに等しい私は納得出来ない気持ちもあった。
父は普通に真面目に勤めていたので給料もボーナスも人並みにはもらっていたそうだ。
けれどその半分を祖母に渡し、半分はすべて自分の小遣いだった。
母が私の娘の子守をしてくれるようになるまでの二十数年間、うちの生活費は母の稼ぎから出ていたのだという。
私が学生時代どんなにバイトで稼いでも、それを寄越せと言ったことはなかった。
母は自分が出すのが当たり前と思っていたそうだ。そういうものなんだ、と。
私に話して聞かせたときも、本当に何気なくて、ひとつも疑問に思っていなかった。
私は文字通り、開いた口がふさがらずしばし呆然としていた。
まず最初に思ったのは「うちは貧乏なんかじゃなかった」だった。
それから「じゃあなんであんなにお金に困っていたのか」と思った。
結論をいうと、祖母に渡したお金はほぼ宗教団体に貢がれていた。
でも、少ないながらも年金は満額貯金していたので、家を建て替えるとなったとき祖母が百万円出した。
ばあちゃんに感謝しろよと父に言われ、お父さんに感謝しなさいと祖母に言われ、私は素直に感謝した。
その頃祖父は既に他界していたので、祖父の財産も祖母は持っていたはずなんだけれど、それもおそらく宗教に消えたのだろう。
祖母が亡くなったとき、通帳には直近の年金分だけ、他にタンス貯金が数万円見つかったそうだ。
借金がなかったことを幸いだと思うしかなかったと母は言った。
普通の会話で母が聞き返しただけでもそうなる。
そしてたまに思い出したように、自分の母親(祖母)の思い出話をする。
子供時代のことが多いらしい。
「あの頃は大変だったけど、かーちゃん(祖母)はばーちゃん(曾祖母)にいびられながらよくやった」と。
ちなみに祖母は、思ったことを言わずにいられない性格で、且つ意地悪なところがあった。
だから当然母は嫁いびりに遭っていた。父には見えていなかったか見て見ぬふりをしたんだろうけれど。
そんなこともあったので、私は祖母が好きではなかった。
私の気持ちはともかく、母は怒っていい。
父はたびたび「おれがきちんと貯金したおかげで今があるんだぞ」と母に言うそうだ。
私もたまに言われていた。「おれは無駄使いしないから金があるんだ」と。
それに対して私は適当に相槌を打っていたけれど、母は反論していいと思う。
あなたがお金を貯められたのは私が生活費を出していたからだ、と。
あなたは一円たりとも家にお金を入れたことは無い、と言っていい。
父に祖母自慢とお金の話をされると腹が立つと母は言う。
ならそのとき、今度そういう話をされたら言えばいいよと伝えた。
言える日が来るかはわからない。母が言う前に私が言ってしまうかもしれない。
だけど、当時漠然とおかしいと思っていたことの答えが出た気がして、反面すっきりしていたりもする。
母は本当に本当に余裕がなかった。
父は当然と思ってそうしていた。祖母も。
祖父は、どうだったんだろう。今となってはわからない。
でも、うちにあった目新しいもの(トースターやビデオデッキ等)は、ある日突然祖父が持ち帰ってきたものだった。
無駄遣いだと言う祖母を無視して私たちに披露してくれた。
だからつまりそういうことだったのだろう。
祖父はわかっていた。でも祖母と父に強く言えない償いだったんだと思う。
そんな私の考えを、少しだけ母に言ったことがある。
すると母は「爺ちゃんはたまに、病院に迎えに行くと帰り道おいしいものを買ってくれたわー」と言った。
ソフトクリームだとか、たい焼きだとか、すぐ食べられるやつ。
食べたことがバレないやつ。
これで私の話は終わりです。散文失礼しました。
読んでくださった方、ありがとう。
ひでえおやじだな
目が覚めてないみたいだから「お前のせいでこっちは苦労したんだボケ!!」
ぐらい言ってやりたい
お前のせいでみじめな子供時代だった、お前の婆あが糞カルトなんかに入るからだ
って言ってやりたい
糞カルト信者じゃないの?そのおやじは
あなたを抱きしめて頭を撫でてあげたくなった